AIは依然として「ただのプログラム」
人工知能やビッグデータを活用するICT技術によって実現されたさまざまな事例を紹介しました。中には「人間が気付かなかったことを見つけ出した」例や「人間の常識をくつがえした」例も見出されます。そういう点では、人工知能はすでに人間を超えているとも言えます。
ただ、「超えた」とは言ってもかなり限定的な部分においてです。データマイニングのアルゴリズムは、多数の暫定解を積み重ねて少しずつ最適解に近づいていくヒューリスティックなものや、統計的な回帰手法で傾向や分布の規則性を見出すもの、場合分けをしてある要素の変化を観測するものなどであり、いずれも既存のプログラムに依っています。マシンがみずから創造的に考えて新たな発見をしたわけではなく、単に超高速の計算機が短時間に何度もアルゴリズムを実行できたから、たまたま見つかったにすぎません。ですから、マシンが人間を超えた部分は「計算速度」だけであって、そんなものは何も今に始まったことではなく、もう何十年も前からそうなのです。シンギュラリティでも何でもありません。
鉱石が掘り出せたのはそれが埋まっていたから
それから、「AIにデータマイニングさせればかならず役に立つ何かがみつかる」と考えるのも過大な期待です。もちろん、おそらく「何か」は見つかります。しかし、それが役に立つとは限らないでしょう。ある山から価値ある鉱石が見つかるのは、「掘ってみたから」ではなく「最初からそれが埋まっていたから」です。
つまり、AIにビッグデータを掘らせてみても、役に立つ何かがまったく見つからないことも大いにありうるということです。しかも、役に立つ何かが埋まっているかいないかは、掘ってみなければわかりません。「この山には何かありそうですぜ」なんて教えてくれる山師みたいなAIも、もちろんありません。すべて運次第です。
したがって、自分のビジネスにプラスになればと思ってAIに多額の資金と時間、労力を費やしたとしても、その投資に見合うだけの利益が得られない可能性も多分にあることは知っておかなければなりません。
最先端AIにできること
第1次AIブームは「マシンなのに迷路の抜け方を覚えるなんてすごいね」ではじまり、「でも現実の問題には何一つ役立たないね」で終わりました。
第2次AIブームは「医療、法律、財務とか、現実的問題にアドバイスできるマシンなんて、すごいね」ではじまり、「でも維持するのが大変で、すぐ使えなくなっちゃうね」で終わりました。
現在の第3次AIブームは「マシンが勝手に経験知をためていけるなんて、すごいね」ではじまり、今も続いています。機械学習やディープラーニングで、AIは処理できる領域を広げています。たとえば、事例として取り上げた「監視カメラでとらえた動作の特徴から犯罪者を見抜く」というのはかなりすごいと言えるでしょう。
しかしこれも「マシンなのに、すごいね」レベルです。職務質問をかける警察官や、民間の万引きGメンの観察眼をマシンに教えたからできるようになったのです。計算の速さゆえに人間を上回るパフォーマンスを発揮することもありますが、「仕事の範囲」と「仕事の質」は人間と同等以上にはなれません。
つい最近(2018年4月)、あのイーロン・マスク氏がまた「AI脅威論」を言い出しました。“Do You Trust This Computer?”というドキュメンタリー作品(期間限定ですがこちらで全部見られます)に出演し、
・神のような超知性を開発すれば、世界を手中におさめることができる
・悪魔のような独裁者でもいつかは死ぬが、AIは死なない。不死身の独裁者が現れる
・我々は急速にどんな人間をも超えるデジタル超知性に近づいており、それは間もなく誕生する
と警告しています。
しかし、本稿いちばん最初の「AI・人工知能について 1」でも触れたように、現在のAIはほとんどすべてが「弱いAI」で、「人間が知性を用いて行う行為を、マシンがかわりに行う」アルゴリズムを実行しているにすぎません。「強いAI」をめざす研究の方向は、第2期「冬の時代」に提唱されたことはありますが、その研究方向の進展はほとんど報告されていません。
「自分で自分を改良するマシン」については、それに結びつくとすれば「遺伝的アルゴリズム」や「遺伝的プログラミング」ですが、これらは「新幹線の先端部分のデザイン」とか、ナップザック問題のような「NP困難」の問題の近似解など、限定的な問題にしか使えません。やっていることは「できるだけ良い結果」に少しずつ近づいていくヒューリスティックなプロセスであって、十分に満足のいく近似解に到達すればそこで「進化」は止まります。万が一にも「デジタル超知性」にまで成長することはありえません。
「ディープラーニング」についても、「マシンが勝手に学習する」という点を拡大解釈すると、マスク氏のような考えになってしまうかもしれません。
しかし「マシンが勝手に学習する」のは認識する対象物の「特徴量」であって、対象物の識別に100%近く成功するようになったら、もうそれ以上の学習はしません。マシン自身が「えっと……リンゴは覚えたから……じゃ、次はバナナ」とか、勝手にテーマを決めて学習するわけもありません。またそのような「意欲」を、マシンが内発的・自発的に持つ理由も可能性もありません。ですから、ディープラーニングマシンが「デジタル超知性」に成長することも、万が一にもありえません。
恐れることも、過度の期待も禁物
要するに、現行の第3次AIブームに至ってもなお、AIはそれほど大層なことはやれていないのです。そして、前述のように汎用型の「強いAI」を目指す研究はごく少数の研究者によってなされているだけで、それでもさまざまなアプローチで進められているものの、すべて壁にぶち当たっている状態です。カーツワイルが言う「2045年」でも、本当の意味での「強いAI」が実現できているかどうか、怪しいところです。
「実はたいしたことはない」AIの時代は当分続きます。恐れることも、過度の期待を抱くことも禁物と言えるでしょう。